大津皇子の変

●大津皇子=663〜686(天智2〜朱鳥1)天武天皇の皇子。母は天智天皇の皇女の大田皇女。
672年6月、壬申の乱に際し、大津京を脱出。伊勢国鈴鹿関で、大海人皇子(天武天皇)と合流。
686年9月、天武天皇死去による殯宮の際、草壁皇子と決定的な対立が生じた。その直後、万葉集によると伊勢斎宮であった姉、大伯皇女のもとへ密かに赴いたらしい。同年10月3日、謀反のかどで、
訳語田舎(おさだのいえ 奈良県桜井市戒重付近)で死を賜る。時に24歳。
この時、妃の山辺皇女は髪を振り乱し、裸足のままで駆けてきて、遺体にとりすがって殉死したといわれている。
謀反のかどの真相とは?
大津皇子の風貌はたくましく音声明瞭で、天武の寵愛を受け『懐風藻』によれば、度量広大で、博識、<詩賦の興りは大津より始まれり>と評されるように漢詩文を得意とし、成長するにおよび腕力強く、文武ともに極めて優れ、また高貴の身をおごらず人を厚く礼遇したので衆望を担っていた人物といわれ、最大の庇護者の父、天武を失った時に、大津皇子の言動が、敵対する人々に謀反の口実を与えることにもなったとみられる。謀反を告げたのは大津皇子と莫逆の契りをなした川島皇子であったともいう。しかし、謀反の形跡はほとんどみられないことから、この事件は皇太子草壁の皇位継承を安全にするために、皇后(持統天皇)が仕組んだ陰謀である匂いが強い。逮捕された共謀者30余人のうち、ひとりを除きみな赦免になったことから察すると、計画が事実無根ではなかったとしても、子の草壁皇子を皇位につけたいがために、大津抹殺を計画した説が有力である。しかしその草壁皇子は即位することなく2年後に若死にする。

▲大津皇子像

◆万葉集より◆
捕らえられ護送される途中で大津皇子が歌った歌一首。

大津皇子の事件により、斎宮の任を解かれた姉大伯皇女が歌った歌一首。

●二上山●
大津皇子は死後、葛城の二上山に移葬された。
1984年の飛鳥跡発掘調査で、「大津皇」「大来」などの木簡削片が出土した。