24歳で若死にした天皇が葬られている
天武天皇と、持統天皇の孫である文武天皇は、ここに葬られたと『続日本紀』にみえる。
在位10年、24歳で夭折する。
藤原不比等の娘、宮子と結婚し、ここから天皇家には藤原氏の血が混ざり始める。
温厚な人柄で、弓術に秀でていたという。


高松塚古墳の敷地内の案内板を頼りにをずっと登っていくとありました。人ひとりいなく、ひっそりとしていました。


●文武天皇●
683年〜707年(天武12〜慶雲4)在位697年〜707年。
天武・持統天皇の孫。草壁皇子の皇子、母は元明天皇。
幼少時を 軽(訶瑠-かる)皇子、諡は天之真宗豊祖父天皇。
697年(持統11)2月皇太子となる。同年8月藤原宮子を夫人として、11月藤原宮に即位。
700年刑部親王・不比等らに律令整備を命じ、701年(大宝1)大宝律令を完成。
翌702年施行した。704年(慶雲1)鍛冶司に命じて諸国の国印を鋳造させる。
706年、正丁の歳役庸の法、義倉戸栗法、皇親籍、田租の法などを改正した。
707年没し、飛鳥岡で火葬に付した。
『懐風藻』に3首、『万葉集』に1首の詠がある。
温厚な人柄で、中国の書籍にも明るく、弓術にも秀でていたという。

●宮子(文武天皇の夫人)●
?〜754年(?〜天平勝宝6) 文武天皇の夫人。
藤原不比等の娘、母は賀茂朝臣比売女。諡は千尋葛藤高知天宮姫之尊。
697年(文武1)文武天皇の夫人となり、701年(大宝1)聖武天皇を生む。
724年(養老8)大夫人の称をうける、時に正一位。
しかし長屋王の建議などにより、大夫人を改め文には皇太夫人と書し、大御祖と呼ばせた。
『続日本記』天平9(737)条に、皇太夫人宮子が聖武生誕以来幽憂に沈み通常生活を送ることができず、わが子とも会えなかったが、玄ぼうの看護により全快、
わが子文武天皇とはじめて対面を果たしたという。
754年(天平勝宝6)病に臥し、百方治療を尽くしたが効果なく、ついに崩じた。
佐保山陵に火葬された。
『扶桑略記』『元亨釈書』の善珠の伝に、流言として
善珠が宮子と玄ぼうの子であるという記述がある。

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