◇◆有間皇子の立場◆◇
有間という名は、父の孝徳天皇が有間温湯で療養していた時に生まれたからという。
その父が、中大兄皇子と対立して孤立し、失意のうちに難波で没したあと、有力な皇位後継者として注目され、皇太子である中大兄皇子に疎まれることになる。
有間皇子は難を逃れるため、自分には皇位を継承する器がないことを知らしめるため、狂人を装っていたといわれる。

◇◆斉明天皇の留守中に。。。◆◇
斉明天皇が療養に紀伊国牟婁温湯に行くというので、中大兄皇子以下がこれに随行し、これの留守官として蘇我赤兄が都に残った。
蘇我赤兄有間皇子に斉明朝の失政3か条をあげ、非難し、クーデターをそそのかす。
それを聞いた有間皇子は実力者の蘇我赤兄が自分の味方だと思いこみ、謀反の決意を固めたが。。。

◇◆蘇我赤兄の裏切り◆◇
挙兵の謀議の最中に脇息が倒れ、それを不吉として実行を延期したが、その夜、蘇我赤兄は兵を上げ、有間皇子の家を囲み、「謀反の意あり」として有間皇子を捕らえ、紀伊国牟婁温湯へ護送される。
ここで皇子は蘇我赤兄に謀られたと知るのである。

◇◆有間皇子の最期◆◇
中大兄皇子に謀反の理由を問われた有間皇子はこう答えた、「天と赤兄だけが知っている。私は全く知らない。」
その翌々日、藤白坂(和歌山県海南市)にて、処刑される。658年11月、皇子は時に18歳。
この有間皇子の変の黒幕は中大兄皇子とも言われている。


◇◆残された歌◆◇
有間皇子が護送される途中で作った歌が、
万葉集に2首残されている。

この歌碑と墓は今でも
和歌山県海南市藤白神社の南、
藤白坂の入口に残されている。

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